吉岡 良晃

荒川技研工業株式会社 大阪オフィス 課長

吉岡 良晃 荒川技研工業株式会社 大阪オフィス 課長

独自の仕組みが美術館のスタンダードに。

吉岡さんは、いつ頃からピクチャーレールを扱ってきたのですか?

吉岡 私は昭和54年(1979年)に関西である会社に就職し、昭和57年に東京営業所に異動になりました。この営業所と荒川技研工業に取引があり、すでに荒川がつくった金具を他のパーツとミックスしてピクチャーレールを美術館などに納品していたのです。やがて日本国中に美術館が増えたことで、この仕事にずっと携わってきました。その会社を2005年に退社し、2008年から荒川に勤めて現在までピクチャーレールを扱っています。

ピクチャーレールの仕組みについて説明してください。

吉岡 ピクチャーレールは、正確にはピクチャーハンギングシステムといって、レール、レールアタッチメント、ワイヤー、ハンガーという4つのパーツからできています。そのシステムの中で特にフックタイプのグリッパーであるハンガーは、ワイヤーの脱着、固定、移動というグリッパー機能を内蔵した重要なパーツです。この4つのパーツごとに強度があり、トータルとして絵画作品を吊るすシステムの性能となり許容荷重となります。昭和50年代、ワンタッチで操作できるグリッパーをつくれるのは荒川だけでした。他のメーカーの製品も、金具は荒川のものを使っていたのです。

荒川のグリッパーは、なぜ優れていたのですか?

吉岡 金具の内部に3つのボールがあり、その動きでワイヤーを固定する仕組みは、荒川の現会長が独自に開発したものでした。ワイヤーの固定にはいくつかの方法がありますが、安全性と操作性の高さから、これが最もいいということになったのです。金具の中にワイヤーの先端を差し入れると、そのまま固定されます。部品点数も少なくて済むので、故障しにくく、コストも安くなる。荒川のグリップを使ったレールシステムが、美術館に広く信頼される理由になりました。

ピクチャーハンギングシステムの仕組みについて説明する吉岡良晃さん。
ピクチャーハンギングシステムの仕組みについて説明する吉岡良晃さん。

荒川技研工業と美術館の結びつきは強いということですね。

吉岡 日本では1980年代から90年代にかけて、国策として公立の美術館が全国でつくられていきました。そして建築家にとって美術館とは、一生に1度設計できるかどうかの大変な仕事。だからこだわりが非常に強いのです。そこで性能が高く、デザインの邪魔をしないピクチャーレールが求められました。要望に応えるのは大変ですが、反面、そうやって増やした製品のおかげでバリエーションが増えていきました。特に日本の美術館は海外から作品を持ってくる企画展が多く、展示替えが頻繁にあるので、作品の位置やサイズに簡単に対応できるピクチャーレールは不可欠なんです。一般の家庭にピクチャーレールが普及したのは、美術館で絵を見る機会が増えて、それを自宅でもしたいという人が増えたのでしょう。外国人向けの住宅から広まっていきました。

吉岡さんは、自分のお仕事のどんなところにやりがいを感じてきましたか?

吉岡 面白かったのは、やはり美術館との仕事ですね。美術館のための製品は、あらゆるディスプレイの中でも象徴的です。非常に高価なものを吊るすので、実績と信頼がなければできません。黒川紀章さんや菊竹清訓さんはじめ有名な方との仕事もありましたし、実際に製品を選定する学芸員とのやりとりも記憶に残っています。なかなか普通にはできない経験でした。ただし仕事の規模が大きいので、美術館を構想してから予算が決まり、基本計画や設計を経て施設が完成するまで10年位かかります。私たちは計画が漏れ聞こえてくる頃から準備室を訪ねて、実績を伝えていかなければなりません。

これから荒川技研工業は、どんなワイヤーシステムを生み出していくでしょうか?

吉岡 美術館がこうしたシステムを使うようになって40年以上経ちますが、根本的に違うものが出てくるような兆しはあまり感じません。現在は平面作品の展示ばかりに使われますが、ワイヤーで箱を浮かべて立体作品を展示することもできます。こうした使用法には可能性があるでしょうね。またシステムの心臓部であるグリッパーは、ワイヤーを横に張ったり、いろいろなものを固定したりと、建築空間の中で幅広い使い方が見つかると思います。

プロフィール

近吉岡 良晃

吉岡 良晃荒川技研工業株式会社 大阪オフィス 課長

1955年奈良県生まれ。近畿大学卒業後、流通金物卸商社を経て荒川技研工業入社。前職から美術館を主にピクチャーレールの普及に力を注ぐ。